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地域とつながるオトコたち(兵庫県川西市・猪名川町)
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2012/01/03のBlog
(写真は刈り取った稲を架けるはさぎ並木・新潟市秋葉区満願寺)
2012年1月3日
『人生のエンディング』(その3)
「私流の最期を迎えたい」

 命には限りがあり、人は誰でも最期を迎える時がやってくる。その時がいつかは分からない。分からないから、その不安と恐れに蓋をして毎日を生きている。昨年2月、母親を見送った。早朝、仏壇の前に座ると、今まで何気なく暮らしていた日常が、今日は何をしようかと一日々々を区切って暮らすようになる。

 しばしば、特別養護老人ホームで最期を迎えた母親について振り返ることもある。果たして施設で過ごした生活に満足していただろうか。言い残したいことはなかったか。施設で母親の最期をみとった時を思い出しながら、私の最期を想像する。死に場所はどこなのか。自宅、あるいは介護施設か病院か。元気で寝つかずに、家族に感謝のひと言を残してこの世と別れたい。

 2002年の春、奈良の実家で一人暮らしをしていた母親を我が家に引き取った。当時、私たちは二人とも働いていたので、昼間は一人になる。時々、近くのスーパーへ買い物に出かけるが、やがては自宅への帰り道を忘れるようになる。

 市役所の広報車を見つけると、タクシーを停めるように手を挙げて、家まで連れて行くよう頼んだこともあった。また、交番に飛び込んでは、「私の家はどっちでしょうか」。さいわい住所は覚えていたので何とかなったが、お巡りさんを随分てこずらせていたらしい。

 夜は頻繁に起き出してトイレにたったり、廊下を歩き回ったり。居間で何やら探しものをしていたことも。今まで住み慣れていた実家とは勝手が違うのか、とにかく家の中を歩き回っていた。そんな母親の行動を心配して、やがてカミさんが添い寝をするようになった。

 しかし、昼間の一人暮らしが不安になってきて、我が家近くの介護施設でデイサービスを受けることにした。連日の添い寝、汚れたトイレや床に拭き掃除、として母親の入浴介助、カミさんには随分助けられ、今でも感謝している。

 それから約一年、とうとう母親が我が家で住めなくなる時がやって来た。2003年5月、骨盤を骨折して救急車で近くの病院へ搬送された。慣れない入院生活で、認知症は進んでいった。夜はひとり言。点滴治療のチューブを取り外すようになってからは、手足をベッドに拘束された。医者からは、「退院後は自宅で暮らすことは無理なので、今から老人の介護施設を探しておくように」、と告げられた。

 退院後、我が家近くのグループホームに入所した。川西市内の特別養護老人ホーム(特養)でお世話になりたかったが、入所を希望する人が200人以上待機中と聞かされて諦めた。特養へ入る順番待ちをする余裕はなかった。グループホームの費用は毎月20万円を超えた。

 グループホームに移ってからは悠々自適に暮らしていた。ヘルパーさんがこまめに動いている。母親が好きだった戦前の歌謡曲を収録したカセットテープも用意してくれた。ホームの庭には家庭菜園があり、母親は野菜作りを楽しんでいた。春はお花見、夏は花火大会、秋は近くの公園やお寺までの散歩。季節ごとにレストランでの食事会や半日ドライブ。職員に連れられて出かけることを楽しみにしていた。
(写真はメタセコイヤの並木道・滋賀県高島市マキノ町)------>
 
 当時、私は会社に勤めていたので週末になると帰宅途中、グループホームに立ち寄っていた。しかし、いつ頃からか、会話が通じなくなってきた。2005年の暮れ、母親の介護を理由に会社を辞めた。月に数回は、ホームで暮らす母親を訪ねた。そして、2度目の骨折で再び入院。認知症はさらに進んだ。

 2008年8月、市内の老人介護施設から突然電話がかかってきた。母親の入所について打ち合わせしたいので来てほしいとのことだった。すぐさま施設に向かい、管理者から説明を受けた。特養が満室なので、取り敢えずショートステイサービスで入所し、その後特養に移るとの説明であった。ともあれ特養に入所できることになった。

 特養で暮らすにあたり、個室を希望した。同室の方に気兼ねなく母親といろんなことを話したかった。ただ、入所した時は、私を見てもかすかに息子と認識できる程度゙だったと思う。自力での歩行は難しく、部屋には車椅子が用意されていた。春や秋の穏やかな日和の日は、車椅子に乗った母親と施設の外に出て、散歩を楽しんだ。

 時折孫(母親のひ孫)と連れだってホームを訪れた。しかし、母親の反応は鈍く、孫を見ても笑顔はなかった。同じフロアーのお年寄りが孫を可愛がってくれた。本当は母親に喜んでもらいたかったのだが、残念である。人生の最期へ向かう命とこれから成長していく命。家族の中で受け継がれていく命の重なりを感じた。

 2010年の暮れから、母親の様子が変わってきた。昼間から眠ることが多くなり、食事の量もめっきり少なくなった。これからの介護について、施設の管理者と話し合う機会が増えていった。「今日、医師が往診に来る」、と管理者から連絡を受け、私も施設へ行った。医師から母親の症状を聞いた後、これからの治療について意見を求められ、私の願いを伝えた。

 「母親がどうしてほしいのか、母親の本意は分からない。ただ、息子として鼻からチューブを通したり、お腹に穴を開け、胃へ管を入れて栄養を送る人工栄養法は苦痛を与えるだけで、苦痛を伴う延命治療は望まない。ここまで精一杯頑張って生きてきたのだから、もう思い残すことはないと思いたい。本人も自然に死へ向かうことを望み、苦痛を伴う治療は選ばないだろう」。

 母親が逝ってから約10ヵ月が経つ。本来は家族と暮らすのが一番幸せであるが、グループホームや特養と、施設での暮らしに母親が心から満足していたか、今もって気になっている。一方で、自宅での排泄や入浴、食事などの介護(介助)は、家族にとって心身の負担は大きく、在宅介護の厳しさを知った。

 さらに、認知症や寝たきりの家族を自宅でみとる場合、いつ来るか分からない死の時まで介護を続けねばならず、その辛さは想像を超えた厳しさであろう。在宅の場合、介護する家族を支える社会的な仕組みがあってもいいのでは。私も自分らしい最期を迎えたいと願っている。死は必ずやって来ると先ず腹をくくって元気に暮らしている今から備えたい。

 そこで、家族が人生の終わりを迎えた時、周りの人たちがどう支え合ったのか。大切な人を失った悲しみをどう受け止めたのか。そんな経験と思いを掲載した朝日新聞の記事を次に紹介させていただきたい。そして、長びく不況と東日本大震災の影響で混沌とした社会の中で、自分らしさを求めて、自分で葬儀を準備する人たちがいる。「美しい衣装で逝きたい」と、自分で葬儀を準備する人たちを紹介させていただく。
(写真は大根の花と桜並木・鹿児島県鹿屋市吾平町麓)---->
『備える・人生のエンディング(読者から)』
<大切な人の最期だから>
(2009年2月18日付け朝日新聞より引用)

 8月から掲載した、「備える・人生のエンディング」には、全国から約350通のお便りをいただきました。人生の最後をどう支え合ったか、大切な人を失った悲しみをどう受け止めたか。経験と思いを紹介します。

◆≪みとり≫
 東京都小金井市の主婦、高橋信子さん(46)は2年前、母を実家でみとった。「最期の瞬間まで家族が協力し合って見送れた。母らしい時間を過ごせ、私もうれしかった」、と振り返る。良い在宅ホスピス医やケアマネジャーにめぐりあえた。それでも、「3ヵ月の介護は想像以上に大変だった」、と言う。在宅で大丈夫か、家族で何度も話した。結論まで1ヵ月。子どもを抱え、母への思いと自分の生活との間で揺れた。

 結局、子連れで実家に転居した。24時間の見守りや2時間おきのトイレ、食事の介助が続き、心身への負担は大きかった。父は腰を痛めて介護ができなくなった。「在宅医療の態勢は整ってきたが、介護者を支える仕組みがあってもいいのではないか」、と高橋さん。

 鳥取県米子市の鈴木早苗さん(63)は昨年、夫の92歳の父をグループホームでみとった。母を病院で見送った経験から延命治療はしないと決めていた。このホームでは初めてのみとり。職員も戸惑っていたが、往診してくれる医師が見つかり実現した。食欲がなくなり、寝ていることが多くなってからは、管理者や医師と、「救急車は呼ばない」などを確認した。

 点滴を絶った後は、枯れていく感じになった。「最期はすーっと息がなくなり、こんなに安らかな死に対面したのは初めて」、と鈴木さん。看護師と職員が体をふき、入居者全員が搬送を玄関で見送ってくれた。「ホームには本当に感謝している。医師が、『応援するから』と関係作りをしてくれ、助かった」。

 愛知県犬山市の主婦(54)は、「最後は自宅でとの父の願いはかなえられなかったが、結局は良かったと思います」、と言う。救急車で運ばれた父は末期の肺がん。余命は病院で1ヵ月、在宅で1週間と診断された。在宅だと24時間対応できる医師、酸素ボンベ、複数のヘルパーなどが必要と言われた。

 母は認知症で要介護状態。医師から、「自宅では難しい」と告げられた。それでも悩んだが、看護師から、「ゆっくりお別れできるよう、お母様の気の済むまでお父様のそばにいられるようにしてあげて下さいね」と言われ、救われた。母は毎日病室に来て一緒に過ごさせてもらった。

 車いすの母と、ベッドの父が、お互いの手をとりながら、うとうとと寝ている姿を見ながら数日後、最期の時を迎えた。「人工呼吸器をつけずに自然に」との意思も尊重してもらえた。「『どこで』より『ケアの質』が大切なんだと実感しました」。
(写真は千歳通りの桜並木・東京都世田谷区桜丘2丁目)---->
◆≪死後≫
 1年前に夫を亡くした埼玉県の大澤和子さん(77)は、「毎日寂しくて恐ろしくて、特に夜は耐え難かった」と言う。そんな時、夫と知り合った頃に交わした50年前の手紙を見つけた。毎晩、古びた便箋を読み返し、夫をしのびながら眠った。

 多くの手続きやお礼、墓参りなどが一段落した4ヵ月後、倒れて入院した。夫の死後初めて、夜、人の気配を感じながら眠ることができた。それまでは夫の傍らに行くことばかり考えていた。退院した時、「この世にまた戻れた」と感じた。

 そして、「お父さんに手紙を出そう」と思いついた。ノートを用意し、毎晩夫に語りかけるように1ページ。その日のできごと、感じたこと、同意してもらいたいこと、教えて欲しいこと・・・。不思議と毎晩書くことが浮かんだ。夫と「会話」するひとときがいま、救いになっている。

 妻を亡くした東京都武蔵野市の近藤公夫さん(86)は、「寺のお勤めをしても故人から反応はなく、人に話してもむなしさは増すばかりだった」という。その気持ちをそのまま文章に書くことにした。故人を思い出すたび、話題になるたび、夢に見るたびに、ワープロで打った。読み返して妻をしのんでいたが、自費出版し知人に配る予定だ。「法事の代わりに、本を声に出して読む会をしたい」。

 奈良県生駒市の合田禮子さん(70)の夫の葬儀は、故人の希望で家族葬にした。友人や知人には事後報告になったが、温かい便りやメールが寄せられ、追悼文集として大切にファイルに収めた。旧友からの手紙は、夫の学生時代の暮らしぶりや交友を伝えてくれ、代え難い宝物になっている。合田さんは、亡くなるまでの3年間をまとめた写真入りのしおりをパソコンで作り、お礼の品とともに送った。「故人に会えたようだと、喜んでもらいました」。

◆≪遺影≫
 静岡市の主婦、田中千香子さん(44)は、2年前の父の葬儀で葬儀社が用意した遺影に失望した。服を黒のスーツに修整されていた。肩幅や体格が微妙にずれ、印象が違った。何とか元に戻してもらったが、不満は大きかった。

 6年前に夫を亡くした神奈川県三浦市のカメラマン、中村瑠璃さん(38)は遺影がなくて困った。二人とも写真嫌い。めいを撮った写真に偶然笑顔で振り返った夫が写っていた。その後、仕事で撮った写真を、「遺影にするよ」とたびたび言われた。グラス片手だったり、消防団の訓練だったり。自然な写真だ。3年前に遺影撮影サービスを始め、行事の時などに顧客のところへ行く。

 ある女性は趣味の絵画に没頭する姿を撮った。目線は下向きだが本人が気に入り、遺影として使われた。再婚して娘が生まれてからは、自分も積極的に写るようになった。「自分が亡き後、私らしい私の姿を残したい。改まって写真をとらなくても心構えなんだと思います」。日本写真館協会によると、この数年、生前に遺影を撮る動きが出始めているという。
(写真は国立市の桜通り・東京都国立市富士見台1丁目)---->
『おしゃれに召されたい』
<花柄、刺繍・・・私らしい死に装束>
(2011年12月13日付け朝日新聞より引用)

 美しい衣装で逝きたい・・・。そんな思いをかなえる、おしゃれな死に装束が注目されている。花柄や色とりどりのドレス。愛らしい刺繍をあしらう着物。生地もこだわった一着に、買い手も作り手も思いを込める。

◆最後の正装
 まるで白無垢のよう。振り袖の襟元には、ピンクの桜刺繍。タンスにしまわれた着物は、福岡県大野城市の女性(69)が半年前に買い求めた死に装束だ。25歳で結婚。式では和服を着ただけ。連れ添った夫を2年半前にみとった。「おしゃれをすると喜んでくれた。あの世でも夫と結婚したくて、白い振り袖を選びました」。

 作ったのは福岡市中央区の「ルーナ」。「さくらさくら」のブランド名で、2007年に販売を始めた。死に装束はふつう白一色の和装で、数千円から3万円ほど。高いものは10万円以上する。ルーナでは、花柄や胸元に桜を散らした白いドレスなど、男性用を含めて9種類をそろえる。3万~25万円するが、注文は全国から月約70着。この1年で自分用が半数を超えた。

 中野雅子社長(47)が始めたのは、父親の死がきっかけだった。「おしゃれだったのに、最後の服はみんなと一緒。父らしさがなかった」。あの悔いをなくし、別れの儀式を手助けしたいと取り組んだ。亡くなって時間がたっても着せやすいよう、生地をたっぷりとった。「業者任せでなく、遺族が着替えに加われることを考えた。温かい気持ちで送り出せるように」。

 札幌市中央区の、「オートクチュール ジョチカジェル」は06年から、「旅立ちの衣装」の名で販売する。開くと一枚の布のようになり、体の下にくぐらせて紐などでとめる。首筋の老いはハイネックで隠す。胸に下げて六文銭を入れる袋はポシェットにした。「この世で最後の姿である衣装。ウエディングドレスより大事だと思います」と、鳴海恵美子社長(38)は話す。

 滋賀県草津市の、「アイイリス」が作るのは、「ラスティングドレス」。山本和代・代表(51)が注文に応じて生地を選ぶオーダーメードだ。顧客はすべて女性で、「葬儀で人に見られる姿も美しくありたい」という声が多いという。山本さんも、「すてきな姿を家族の思い出に残してもらいたい。最後の正装として選んでほしい」と語る。

◆自分で準備
 死に装束へのこだわりは、「私らしさ」の追求とともに、自分で葬儀を準備する時代になってきたからだと専門家はみる。日本葬送文化学会長の八木澤壮一・東京電機大名誉教授は、「昔は地域社会が葬儀を仕切った。会社の人間関係も今より強く、葬儀をよく会社の後輩が手伝ったりしたものだ」と言う。

 ところが、人間関係の変化や長寿化で、とくに2000年以降、葬儀は自分で用意しておくものになってきた。「葬儀や相続などを書き残すエンディングノートの流行や家族葬の増加もその流れです」。

 昨年夏、大阪市で、「終活(しゅうかつ)ファッションショー」を開いた作家の安田依(い)央(お)さん(45)は、自分の最期や葬儀について考えをまとめることは、「大人の作法だ」と考える。安田さんは司法書士として、遺言や相続をめぐって傷つけあう人たちを見てきた。「最後に何を着るかを決めるのは、自分はどんな人間で、どんな一生を送ってきたかを考えること。衣装から、『死の準備』を考えてみませんか」と話す。(山下知子)
2011/12/24のBlog
(写真は大阪府内の有料老人ホーム・門真市常称寺町)----->
2011年12月24日
『人生のエンディング』(その2)
「人生最後の決断」

 60代も半ばを迎えると、高齢期の住まいや最期をどう迎えるかと考えるようになる。今は元気だが、いずれは自立した生活が難しくなり、人の支えを必要とする時が必ずやってくる。その時を安心して過ごすには今からどう備えたらよいか、考えている。

 多くの高齢者は、住み慣れた自宅で暮らし続けたいと願っている。我が家は2階建ての一軒家なので、夫婦がどちらか一人になった時は広すぎて不便だ。娘たち二人のうちいずれかが同居してくれるのが望みだが、介護する側の娘たちにもそれぞれ家族の事情がある。

 そこで、介護付き住宅として有料老人ホームはどうかと、新聞紙上で広告記事を見ているが、入居一時金と月額利用料は、一般庶民には手も出せそうもない。駅前や繁華街の近くでなくてもよい。交通の便がよければ、自立した高齢者にはそれで十分だ。せめて、入居一時金が蓄えの半分ほどで、家賃と生活費を年金でまかなえるケア付き住宅が増えることを願っている。

 となれば、公的な介護施設を利用したいものだが、特別養護老人ホームは多くの方が待機状態。要介護度がかなり高くならなければ入所は非常に難しい状況だ。そこで期待するのが民間の介護施設となるが、介護保険サービスの利用が急増して地方自治体の財政を圧迫しており、介護保険が適用されるケア付き施設の新設が、総量規制と呼ばれる方法で制限されている。

 有料老人ホームは一時金が高過ぎる。しかし、特別養護老人ホームは希望する時に入所できるとは限らない。そうなると、安心して介護を受けられる高齢期の住まいをどうするか、これからの暮らしを思うと大きな問題になってくる。だが当分は、住み慣れた自宅で過ごすしかない。しかし、自宅であれ施設であれ、どちらで介護を受けるのか、いずれは決心しなければならない。

 家族、訪問医や看護師、ヘルパーらに支えられながら、自宅で最期を迎えるのか。それとも、介護付き住宅に住み替えるのか。住み替えるとしたら、その時期はいつにするのか。そして、その時までに身の回りを整理して、最小限のシンプルな生活にしておくこと。いずれにしても、「その時は必ずやってくる」。腹をくくって備えることだ。

 また、高齢期の住まいを選ぶには、家族とよく話し合うことも必要だ。家族の世話になるのか、家族に迷惑をかけたくないのか。自宅か施設か。介護を受けることを前提に、本人の求める介護の場所をどこにするのか、適切な判断力がある今のうちに見極めておくことだろう。自分の人生は自分で決めるという覚悟が必要だ。

 さらに、住み替えるとなると、終(つい)の住処(すみか)として暮らしたい施設とエリアを決めなければならない。それには先ず、福祉施設や高齢者住宅など、多種多様の施設や住まいの中から、それぞれの入居条件や介護サービスの違いを知り、本人の求める最適の施設を決めたい。そして、家族の往来や仲間とのつながりを考慮して、都会、郊外、田舎などの中から、最適のエリアを選びたい。

 元気なうちは自宅で暮らし続けたい。しかし、誰かの介護を受けなければならない時は必ずやってくる。それに備えて、元気に暮らしている今のうちに、在宅介護と施設での介護、どちらを選ぶのか決めておきたい。そこで、将来介護を受ける立場になる時のご参考になればと、朝日新聞に掲載された介護に関する二つの記事を次に紹介させていただきたい。
(写真は大阪府内の有料老人ホーム・枚方市印田町)------>
『<備える> ケアのあるすまい』①
「自宅と施設 一長一短」
(2009年2月12日付け朝日新聞より引用)

 介護が必要となって、有料老人ホームやケアハウスなどで老後を過ごす人は少なくない。でも、元気なうちは住み慣れた自宅で過ごしたいもの。住み替えると、どう生活が変わるのだろうか。住み替えどきは、いつがいいのだろうか。

 もしも介護が必要になったら、あなたはどこで介護を受けたいだろう。内閣府の調査(03年)によると、「可能な限り自宅で介護を受けたい」人が最も多くて45%。特に男性に多く、理由は、「住み慣れた自宅で生活を続けたいから」が大半を占める。

 一方、女性では特別養護老人ホームや老人保健施設などでの介護を望む人も38%おり、自宅の39%とほぼ同じ。施設を望む理由は、「家族に迷惑をかけたくないから」が多い。しかし、現実はどうなのか。

 有料老人ホームの紹介事業を営む「介護情報館」(東京)の館長、中村寿美子さんによると、介護のために住み替えを考える時期はだいたい80歳ぐらいで、ひとり暮らしや子どもがいない夫婦だと、もう少し早い。

 突然倒れてしまい、施設に関する知識もなく、どうしていいか分からずに慌てて相談に来る人も少なくないという。中村さんは、「2000年に介護保険が始まり、保険サービスを利用してギリギリまで自宅で過ごす人が増えた。住み替える年齢もずっと遅くなっています」、と言う。

◆何を重視? 選ぶための勉強を
 介護保険では、介護の必要度に応じて決まった額まで、排泄や入浴などの訪問介護、訪問看護、福祉用具のレンタルなどのサービスが利用できる。本人負担は1割。自宅で介護を受ける人たちの平均的な費用は月3万5千円ぐらいだ。

 足腰が弱っても自宅で暮らすには、段差の解消などバリアフリー化も欠かせないが、住宅改修も20万円を上限に介護保険サービスを利用できる。ただ、介護保険だけでは万全ではない。NPO法人・シニアライフ情報センター(東京)の池田敏史子事務局長は、「介護保険は計画に基づきサービスを給付するもので、緊急時の対応は不十分。家族など、緊急事態に助けてくれる人の存在が欠かせません」。

 不安なら、早めに有料老人ホームなどケア付きの施設に住み替えた方が、安心はできる。ただ、自宅にしろ施設にしろ、利点もあれば欠点もある。自宅なら慣れた住まいで自由な生活を送れる一方で、掃除や食事に労力がかかるし、社会的孤立にもつながりかねない。施設だと、設備は整っているし、食事も栄養を考えたもの。ほかの入居者との人間関係も広がる。でも、居室は一般的に狭いし、ほかの入居者とうまくいかない恐れもある。

 「何を重視して、在宅と施設どちらを選択するか。いずれにしても覚悟が必要です」、と池田さん。中村さんは、「元気でも65歳になったら介護保険の勉強をする。70歳になったら自分はどこで死を迎えたいか考えて、どんな施設があるか勉強した方がいいです」、と助言する。(山田史比古)
(写真は兵庫県内の有料老人ホーム・神戸市垂水区名谷町)--->
『<be between>読者とつくる』
「人生の最期は自宅で迎えたい?」
(2011年12月3日付け朝日新聞より引用)

 不確実な人生の中で、唯一確かなのは、命には限りがあり、誰もがこの世と別れなくてはならないことです。病気などで衰えた時、自宅で最期を迎えたいと思いますか。
◆家族の負担
 beモニターの皆さんの回答は50対50。見事に拮抗した。自宅で最期を迎えたいと答えた人には、身内をみとった経験のある人が目立った。

 埼玉県の会社員女性は(41)は3年前、胃がんだった夫(49)を、訪問医や看護師、ケアマネジャー、ヘルパーらに支えられながら自宅でみとった。病院では孤独だったけれど、自宅は患者の本拠地で患者と家族が中心。「やっぱり自宅のベッドが一番。夫も安心したのか熱も出さず、私も夫に触れたい時に触れることができ、普通の生活の幸せをしみじみと感じました」。

 別れは切ないけれど、「やりきった感」があった。支える体制が広がれば、在宅死はもっと増えると思う」、と話す。奈良県の主婦(75)は昨年、自宅で夫を見送った。「集まった子どもたちに、『また、あした』と言って、数時間後に逝きました。たまたま長女と3人で、川の字になって眠った日でした」。

 だが、日本の現実はどうか。病院で亡くなる人が、在宅死を上回ったのは1977年。その差はどんどん開き、2009年は、81%が病院で亡くなり、在宅死はわずか12%だ。アンケート結果と現実の数字が大きく違うのはなぜか。

 自宅で最期を迎えたくないと答えた人の回答を見ると、「家族に負担をかけたくない」が最大の理由だった。「認知症の祖母の相手をするのに、母が大変な思いをしている。もっと看護や介護の手がほしい」(滋賀、31歳女性)、「認知症や寝たきりの家族を自宅でみとるのは大変な負担。いつ来るか分からない死の時を自宅で迎えるには、家族の理解が一番大切だ」(広島、37歳女性)。

 自宅を選ばない人が望んだ「死に場所」の1位は病院だが、「場所にはこだわらない」人も多かった。「最愛の人がそばにいたら、どこで死んでもいい」(兵庫、51歳女性)。「最期」の場所はともかく、「延命治療は受けたくない」、という声もめだった。「認知症の父は病院で鼻のチューブを抜かないように手足をベッドに縛られ、家族が呼ばれたのは亡くなった後。今も悔いが残る」(東京、47歳女性)。

 孤独死への不安を訴える人もいた。「男の独り暮らしで親戚づきあいもなく、地域で孤立している。今は会社があるけど、最期を思うと胸が締めつけられます。ゴミのように自治体に処理されるのか」(福岡、39歳男性)

 東日本大震災では多くの方が突然亡くなった。大災害を機に人生を見つめ直した人や、「アンケートで考え始めた」(千葉、36歳女性)という人も少なくない。人生の最期を思うことは、どう生きるかを考えることにもつながりそうだ。(生井久美子)
2011/12/23のBlog
(写真は市内の高齢者介護施設・川西市清和台東2丁目)--->
2011年12月24日
『人生のエンディング』(その1)
「生前準備 私の人生どう閉じる」

 今年の2月下旬、母親が89歳で亡くなった。認知症の母は約6年間、川西市内の介護施設で寝たきりにもならず暮らすことができた。看護師や職員の人たち、そして往診の医師には随分とお世話になった。延命治療はせず、点滴を絶った後は枯れていくように、安らかな死であった。孫たちも温もりが消えていく母親の手を握って何を感じていただろう。

 看護師と職員が母親の身体をていねいに拭いてくれた。寝台車が玄関に到着したとの連絡で、お世話になった人たちにお礼を述べ、部屋を出た。部屋に残された遺品の整理と持ち帰りは、葬儀が終わってからでよいとのことだった。寝台車が施設を離れる際、お世話になった人たちが搬送を玄関で見送ってくれた。質の高い介護でお世話して下さった施設の人たちに感謝している。

 介護施設から我が家に戻ってくると、すでに通夜の準備が始まっていた。葬儀社のスタッフがしきりに玄関を出入りしていた。母親の妹二人も奈良から駆けつけてくれた。通夜の準備が終わった頃、寺院の住職がやってきた。この時が、住職との初対面。やがて、身内だけの通夜が始まった。孫たちも正座して、神妙に読経を聞いていた。

 ところで、母親が亡くなる1ヵ月半前、介護施設の管理者から連絡があった。「呼吸をする時、少し苦しそうです。医師とも話し合ったが、最終的には長男のあなたが決めて下さい」。終末医療の相談であった。その後直ぐに施設を訪ねると、医師と管理者が母親の部屋で待っていた。

 「これからは点滴だけにして、延命治療は受けさせたくない。身体に負担をかけず、眠るような状態で最期を迎えさせてやりたい。救急車は呼ばず、この施設でみとりたい。緊急の場合は深夜でもかまわないから、いつでも連絡してほしい」。医師と管理者にそうお願いした。

 施設を出てからは自宅に戻らず、市内の葬儀社に向かったが、その時はかなり慌てていたように思う。母親の死に備えて、葬儀の準備をまったくしていなかった。向かった先の葬儀社については、かつて知人から、「費用の説明も分かりやすく、納得して支払った」、と聞いていた。ひょっとしたら母親の葬儀も任せられるかも。葬儀社を選ぶのも、ただそれだけの理由であった。

 葬儀社に着くと応接室に案内された。介護施設で世話になっている母親の葬儀ということで話を切り出した。葬儀の方法は近親者だけの家族葬。通夜は自宅で営み、告別式は葬儀社のホールで行いたい。告別式は、棺の周りを花で飾り、身内はその周りを囲むように坐るなど、こちらの要望を伝えた。
(写真は葬儀社の外観全景・川西市多田桜木1丁目)----->

 翌日、葬儀社の担当者が自宅にやって来た。その日はバレンタインデー。雪が降る寒い夕刻だった。葬儀社の会員になる手続きを終えると、さっそく祭壇の設営をどうするか、そして葬儀費用についての説明を受けた。葬儀には幾つかのプランがあり、予算に応じて選択できる。費用は会員価格が適用され、一般価格より安くなる仕組みだ。

 費用の概要は、先ず祭壇の設営や寝台車などの基本費用、次に会館使用料、そして葬儀当日の料理飲食代などに分かれる。見積書には、項目別に費用の明細が記載されている。いくつかの要望を追加して、葬儀一式の費用が決まる。「費用は合計でこれだけです。これ以上は頂戴いたしません」。費用の説明に納得し、安心して葬儀を任せることにした。さらに、葬儀で世話になる寺院も紹介してもらった。

 葬儀も無事終わり、満中陰の法要を終えた5月中旬、納骨のため大和盆地の南端にある墓地に行った。当日は、寺院の住職も同行してくれた。早朝、寺の住職を迎えに行くと、早朝にもかかわらず、法衣をまとった住職が山門の前で待っていた。挨拶もそこそこに、阪神高速池田線、南阪奈道路を経由して田舎の墓地に向かった。

 墓を拭き、花を供え、遺骨を墓の下に納めると、二人だけの法要が始まった。目を閉じ、住職の読経を聞いていると、いろんな思いが込み上げてくる。いずれは私もここに入るのか。妻は一緒に入ってくれるのか。妻と私、どちらが先に入るのか。二人がこの墓に入った後、他家に嫁いだ娘たちはこんな田舎まで来てくれるのか。納骨の法要が終わるまでこんなことを考えていた。

 この頃、仏壇に向かって手を合わせていると、ふと思うことがあるある。私の人生、どう閉じるのか。排泄や食事、入浴など、自分の意思でできなくなる時は必ずやってくる。介護が必要になったら、どこで介護を受けたいか。自宅か、あるいは母親のように介護施設で受けるのか。

 延命治療は受けたくないが、その時の判断は家族に任せるしかない。さらに、葬式の方法や墓のこと。そして、私が受ける介護のこと。決めなければならないことがいろいろある。しかし、妻や娘たちとはまだ話し合っていない。まだいいかと焦ってはいないが、今漠然とした不安はある。このように人生の最期を思うと、これからどう生きるかを考える。(了)
2011/11/29のBlog
(写真は青山通りから神宮外苑まで続く銀杏並木・港区北青山2丁目)---->
2011年11月29日
『社会のために役立ちたい』(その3)
<感謝される経験は新鮮でした>
 光学機器メーカーの損失隠し、オーナー経営者のギャンブルで膨らんだ巨額借金で揺れる大手製紙会社など、経営陣による不祥事が問題になる度に、企業の社会的責任(CSR:Corporate Social Responsibility)が話題になる。
 
 財テクに失敗して抱えた有価証券の含み損を隠すための粉飾決算。そして、市場から資金を調達できる上場企業のメリットだけを享受し、会社を私物化し続けた企業体質。これらが企業の反社会的行為として問題になっている。

 企業の社会的責任とは、ただ利益を追求するだけでなく、企業としての組織活動が社会に与える影響に責任を持ち、あらゆる利害関係者(消費者、投資家、取引先、従業員、および社会全体)からの要求に対し、適切な意思決定をすることを指す。

 一方で、1995年阪神淡路大震災でボランティアの支援が相次いだのを契機に、企業の社会的責任の一環として、企業のボランティア活動が、新たな社会貢献として注目されるようになった。それまでの企業と社会、とりわけNPOとの関係は、企業が利益の一部を寄付するだけであった。た。

 さらに、2000年代に入ると、企業の社会的責任が注目されるようになり、社会貢献の在り方が見直されていく。仕事で培った専門的な知識や技能、経験やノウハウなどを持った人たちが、いろんなNPOを手伝いに行くうようになった。職場では得られない生きがいや達成感を求める人たちによる新しいボランティア活動。これがプロボノと呼ばれる社会貢献である。

 プロボノは、ただひたすらNPO活動に奉仕するだけではない。むしろ、日常の仕事にプラスになることが多い。例えば、NPOのプロジェクトに関わることで新しい人脈ができ、NPOの活動を実地で学べることも意義深い。プロジェクトを成し遂げた時、NPOスタッフからの、「ありがとう」の言葉は、NPOと関わったからこその喜びを感じるものだ。また、プロボノ同士で達成感と満足感を分かち合えるのも貴重な経験だ。

 そして、社員のプロボノを積極的に後押しすることで企業にもたらされるメリットもある。プロボノは社員の仕事に対するやる気を引き出し、人材の育成にもつながるからだ。そして、企業の社会貢献としても評価される。勤務時間内の活動を認めるなど、全社的な取り組みとして社員のプロボノ活動を支援する企業が多くなった

 そこで、プロボノによる社会貢献を企業の社会的責任の一環として位置づけ、企業の持っている人材やノウハウ、そしてネットワークなど本業を生かし、全社的な取り組みとしてプロボノを支援する企業を次に紹介させていただきたい。
(写真はNECの本社ビル・東京都港区芝5丁目)------->
『名刺をもう一枚②』
<「プロボノ」 企業も支援>
(2011年2月15日付け朝日新聞より引用)

 企業の社会貢献は、1980年代までは利益の一部を目立たぬように寄付することが中心だった。その後のボランティア活動の定着や、企業の社会的責任(CSR)への注目の高まりを受け、今は本業を生かした活動が広がっている。仕事で培った専門的な技能を生かすボランティア活動「プロボノ」の組織的な後押しもその一つだ。

 NECは昨年4月、社員向けに、「プロボノ説明会を開いた。社会貢献室の池田俊一さん(37)は集まった数十人の社員にこう呼びかけた。「社会起業家を応援する活動に、皆さんのスキルとノウハウ、そして時間を提供してもらえませんか」。

 社会起業家とは、社会の様々な課題を、政府からの補助金などに頼らず、ビジネスの手法で解決しようという人たちだ。NECは社会貢献活動の一環として、2002年から毎年、「社会起業塾」を開催。経営者が助言するなど、若者の起業を応援してきた。

 しかし、起業家の多くは実務の経験が乏しい。実際に事業を始めると、行き詰まってしまうこともある。池田さんは、「社員に力を貸してもらおう。プロボノを通じ社会的な課題に触れることは、社員自身が新しい事業を作りだす動きにもつながる」と考えた。

 説明会には、「中小企業診断士」の資格を持つ小久保和人さん(47)も出席していた。現在は、大手通信会社への営業の調整役を担っており、中小企業との縁は薄い。小久保さんは、「資格を生かせるし、前向きな人と出会えそうだ」と考え、プロボノへの参加を決めた。

 昨年7月には、様々な部署の社員7人とチームを結成。起業塾出身の川添高志さん(28)がつくったベンチャー企業、「ケアプロ」の手助けを始めた。ケアプロは、採血による格安の健康診断事業を首都圏で展開している。健診の機会が少ない人に、手軽に受診してもらうのが狙いだ。

 小久保さんらは川添さんと話し合い、健診データを整理した。診断結果に応じて医療機関の受診を促す携帯電話向けの仕組みもつくった。今年2月、NECが開いた「報告会」で、チームのメンバーは口々に語った。

 「ベンチャー企業の高い志が刺激になりました」。「仕事では成果をあげて当たり前。感謝される経験は新鮮でした」。小久保さんは、「普段は知り合えない社内外の人と出会えた。挑戦することで得られる自信と喜びを分かち合うこともできた」と振り返る。
(写真は日本IBM本社ビル・東京都中央区日本橋箱崎町)---->
 
 日本IBMもプロボノを組織的に支援している。コンサルタント業務を担う森洋子さん(32)が09年秋、社内のCSR担当者へ提案したことがきっかけだ。森さんはそれまで社外で個人的に、NPOを支援するプロボノ活動に参加していた。

 「普段の仕事では身につけにくい経営感覚を養うことができた。自分のスキルを再確認することにもつながった」。そんな体験を森さんが社内で語ると、多くの後輩社員が興味を示し、熱心に話を聞いてくれた。「若手の育成にも役立つ」。森さんはそう考え、社としてプロボノを支援することを提案。昨春には社全体の取り組みとして採用された。

 森さんの同僚、石塚優子さん(26)は、渋谷の街全体を大学のキャンパスに見立てて人や地域の魅力を学ぶNPO法人、「シブヤ大学」の経営指南に取り組んでいる。「事業全体の方向性について、NPOのトップと語り合える経験は、貴重です」と話す。社会貢献担当部長の川嶋輝彦さん(44)は、「本業を生かした社会貢献として、若手社員の能力を向上させる機会として、プロボノは大きく広がる可能性がある」とみる。

 日本経団連の2008年度調査では、企業の8割が社員のボランティア活動を支援し、うち2割は勤務時間内の活動を許可している。ゴールドマン・サックス証券やボストンコンサルティンググループは、就業時間内のプロボノ活動も認めている。会社の社会貢献として評価されるうえ、社員のやる気を引き出し、育成にもつながる。そんな狙いから、プロボノは少しずつ企業社会に浸透している。(小室浩幸)
2011/11/25のBlog
(写真は満々と水を湛えた百秋湖・山形県長井市)--->
2011年11月25日
『社会のために役立ちたい』(その2)
<身近な場所で社会貢献>
 全国川西会議は平成9年11月、川西という名をもつ自治体一市三町が、住民や行政など幅広い分野における交流を通じて、相互に豊かなまちづくりを目指すことを目的に設立された。参加自治体は、山形県東置賜(おきたま)郡川西町、新潟県旧・中魚沼郡川西町(現・十日町市)、奈良県磯城(しき)郡川西町、そして兵庫県川西市。

 そのうち、山形県川西町は米沢盆地の中央に位置し、豊かな水田地帯となだらかな丘陵地帯が続く。県内有数の米どころとして知られ、米沢牛の主産地としても有名である。その川西町にすこぶる元気な高校がある。山形県立置賜農業高校。校訓は、質実剛健、誠実明朗、実践奉仕。

 農業クラブでの活動を通じて、地域農業の技術発展に貢献する。食料・生産、環境、文化・生活など、各部門での成果を、日本学校農業クラブ全国大会で意見発表する。置農のクラブ活動は、製造業や小売業まで巻き込み、行政とともに農業の発展や環境保全に貢献している。

 次に、大阪市天王寺区の寺院。市民のために本堂を開放する。葬式をしない寺として知られ、多くの若者が訪れる。1997年、一人の僧侶が廃寺同然の寺を再建した。寺は如何にあるべきか。ひとりで考えてもいい答えは浮かばない。そこで、多くの人の知恵を借りることにした。寺の在り方を追い求め、目指したのは地域に開かれた寺だった。演劇祭や講演会などの催しに若者たちが集い、語り合う。

 かつての日本では、地域の問題は檀家と住職が一緒になって考え、解決してきた。寺は人々の交流の場であり、地域と深くつながっていた。また、寺の住職は、苦しみや悩みなどを聞いてくれるよき相談相手でもあった。しかし、都市化、高齢化などが進み、寺と檀家、僧侶と一般の人との関係が薄らいできた。

 その一方で、死者をどのように見送るかについての関心は高まっている。そして死後、自らがどう葬られるのかという不安もある。寺は死生観を学ぶ場でもある。長引く景気の低迷で人々が孤立していく世の中で、それぞれの人生を見つめる場として再認識されている。寺は地域の知恵袋であり、交流の場でもある。いま再び、身近な社会貢献の場として見直されている。

 職場や家庭のすぐ近くにも、自分を生かせる場はあるのかもしれない。そこで、地元の農業や環境と対峙して、元気なまちづくりに貢献する山形県の農業高校と、市民に開かれたお寺として年間3万人もの若者が訪れる大阪市天王寺区の寺院を紹介させていただきたい。

 ところでもうひとつ、是非紹介したい高校がある。山形県の南部に位置する長井市は、東芝の工場と多くの町工場がある企業城下町だった。県立長井工業高校は、そこへ人材を供給してきた。OB会の会長が大切にしている写真がある。そこには長井の人たちと故・坂本九氏が写っている。長井工業高校と同氏にまつわるエピソードも併せてご一読願いたい。
(写真は雪灯り回廊祭りでの長井小学校)----->
『名刺をもう一枚③』
<学校や寺で結ぶ縁>
(2011年2月22日付け朝日新聞より引用)

 ●生徒と菓子作り
身近な場所で、社会貢献を始める人が目立ち始めた。学校で育てた農産物を使った菓子を売り出し、地域を元気にしよう・・・。山形県川西町の県立置賜(おきたま)農業高校の生徒が2008年、そんな狙いで、大福を考案した。生徒が校内で育てたコメの粉を皮に使い、餡(あん)の原料には、同校産のカボチャなどを選んだ。生徒の着想を、町内の菓子店、「銘菓の錦屋」で働く卒業生の太田浩美さん(47)が形に仕上げた。

 08年秋、太田さんは突然、置賜農高の教員、江本一男さん(57)に声をかけられた。「生徒が考えた菓子を作るのに力を貸してほしい」。太田さんは在学中、江本さんに教わり、長男も同校を卒業した。しかし、学校への「貢献」は初めてだった。

 生徒のアイデアをもとに、太田さんが作った大福は、町の催しなどで評判となり、これまでに1万2千個も売れた。太田さんは、「後輩たちの企画を失敗作にはできない、と緊張した。仕事とは違う充実感があった」、と話す。

 創立115年の置賜農高は長年、地域に農業の先端技術を伝えてきた。農家自ら作物を加工し、販売する流れが強まるなか、置賜農高は近年、製造業や小売業など、大勢の支援者を呼び込んでいる。

 2月5日に開かれた置賜農高の活動を報告する集いには、卒業生や地元の自治体職員ら、学校を支える人が県内各地から駆けつけた。出席した太田さんは振り返る。「卒業から30年。後輩の力になれることは、こんなにもうれしいことなんですね」。
(写真は應典院の正面の外観・大阪市天王寺区下寺町)--->
●命語るブログ
 大阪市の繁華街にある應(おう)典院(てんいん)は、「葬式をしない寺」として知られ、年間3万人もの若者が来院する。本堂は音響や照明施設を備え、市民に開放。若手劇団が演劇祭を開くほか、生や死、若者の働き方をテーマとする講演会などもあり、人々が語り合う。寺に設けたNPOが会費を集め、運営を担う。

 同じ敷地内にある寺で生まれ育った僧侶の秋田光彦さん(55)が1997年、廃寺同然の寺を再建した。ひとりで知恵を絞っても妙案は浮かばない。広告会社の代表や企業の研究員、大学教員らと話し合って計画を練った。目指したのは地域に開かれた寺だ。

 この年、神戸で児童殺傷事件があり、金融機関の経営破綻も相次いだ。地域や社会を支えていた安心感が崩れていくのを感じていたからだ。「寺子屋」、「駆け込み寺」という言葉があるように、寺にはかつて人々が集い、つながりあった歴史がある。秋田さんは、「原点に立ち返ろうと考えた」、と振り返る。

 「みとりびとは、いく」。秋田さんは09年夏、そんな名前のブログを開設した。生や死をともに考える場をつくろうという狙いだ。終末期医療に携わる医師や葬儀会社員らを取材した報告を載せ、催しの情報も発信している。このブログは、秋田さんのほか、大手情報機器メーカーの健康保険組合で働く浦嶋偉晃さん(49)らも執筆する。

 浦嶋さんは、住み慣れた自宅で最期を迎えられる、「在宅ホスピス」の普及に取り組むなか、秋田さんに出会った。地域に開かれた寺の在り方にひかれ、終業後や終末に應典院を訪れた。催しの設営や受付を手伝い、應典院への関わりを深めていった。

 浦嶋さんは難病や勤務先の倒産を経験している。悩みや苦しみを抱えて寺に来る人と関わるうち、秋田さんからブログの執筆に誘われた。ブログには、様々な講演会の報告を記すほか、自身の死生観を語ることもある。宗教家ではない。特別な技能もない。でも、僧侶とは別の視点に親しみを覚える。そんな声が届いている。

 浦嶋さんは、「自分が必要とし、誰かに必要とされる。そんな縁を結ぶことができて、幸せです」、と話す。かつて、学校や寺は地域の知恵袋であり、交流の場でもあった。いま再び、身近な社会貢献の場として見直されている。職場や家庭以外のすぐ近くにも、自分を生かせる場は、あるのかもしれない。(小室浩幸)
(写真は冬を待つあやめ公園・山形県長井市)------>
『見上げてごらん技能の星』
「ニッポン人・脈・記 どっこい町工場①」
(2011年1月4日付け朝日新聞より引用)

 山形県南部の盆地にある長井市は、白ツツジ、アヤメなど、四季の花がうつくしい。晴れた日の夜は、満天の星がひろがる。この地に精密部品の「吉田製作所」をおこして40年。社長の吉田功(69)は、定時制高校にかよっていたころ、夜空を仰いでは口ずさんだ。♪見上げてごらん夜の星を 小さな星の小さな光が・・・。映画などで夜学生を演じた坂本九が歌い、大ヒットした。定時制の生徒たちは、それぞれの夜空の下、この名曲にどれだけ励まされただろう。

 吉田がアルバムを見せてくれた。坂本が長井の人たちと写る、1982年3月6日の写真があった。県立長井工業高校定時制が20年の幕をおろした翌日、さいごの卒業生8人を励ます会をひらく。その会に坂本が来たのだ。「私はOB会の会長をしていてね、九ちゃんに来てもらいたかった。お金がないと説明したら、ノーギャラでOKだった」。

 坂本と同じ41年生まれの吉田は、中学を卒業して集団就職で東京に出るが、なじめずに数年で戻る。「番長」として長井工高をしきった。30歳で始めた小さな工場は、敷地面積6千平方メートル、従業員24人にまで大きくなっている。

 励ます会の前夜、吉田は長井に入った大スターと飲んだ。下積みの苦労話を聞き、ますますファンになった。そして当日、卒業生と先生、そしてOBたちは、坂本と一緒に歌った。♪見上げてごらん夜の星を ボクらのように名もない星が・・・。歌いながら吉田は思った。九ちゃん、また長井に来てください。今度は、ちゃんとギャラを払います。

 3年後、その思いは散る。日航機墜落による坂本の死とともに。有名人が集まる東京での葬儀で、吉田は遺影に誓った。九ちゃん、名もないボクらのために、ありがとう。ボクは尽くします、地域のために、長井工高のために。

 坂本の葬儀から9年たった94年。吉田はこんな話を聞いた。長井工高に統廃合問題がおきている。廃校になるかも。長井市は、東芝の工場を頂点に、町工場がむらがる企業城下町だった。そこに、長井工高は人材を供給してきた。ところが、円高などで東芝が身を引く。城下町の行く先が危ういから長井工高はいらないのでは、というのだ。

 吉田は、県庁、市役所、地元の商工会議所などで、ことあるごとに説いた。廃校になると、卒業生をあてにしている町工場がつぶれる。人口3万人の長井市は崩壊ですね。私たちの最大の資源は、長井工高なのです。全日制も含めた同窓会の会長として、企業をまわり、長井工高への支援を取り付けていった。

 「強引にカネを出させたこともあったから、私は悪人と思われてるだろうな」。地元企業、自治体、学校がひとつになった。企業は、生徒の実習を引き受ける。もちろん、吉田の工場でも。市役所は、国や県の補助が取れそうなら請求しまくる。吉田は、補助金洗い出しの参謀だ。そして生徒たちは、技能資格の取得に力をいれた。

 統廃合の話が消えても、生徒たちは手を抜かなかった。単線鉄道の駅舎や、田んぼで活躍するロボットをつくる。2009年、長井工高は政府の、「第3回ものづくり日本大賞」に輝く。先月まで生徒会長だった3年生の横沢諒(18)は、アーク溶接など10以上の資格をもつ。「受賞は僕らの誇り、自信です」。生徒たちは、子どもたちのおもちゃを修理するなど、地域への恩返しを欠かさない。

 吉田は喜んでいる。「受賞で、天国の九ちゃんに、やっと一つ報告できた」。でも、心の中に、モヤモヤしたものが残っているという。ノーギャラで来てもらった後ろめたさなのか。12年の秋に、長井工高の50周年を記念する式をひらく。その委員長をつとめる吉田は、坂本の妻で女優の柏木由紀子(63)を呼ぼうと思っている。もちろん、ギャラを払って。実現させてください。きっとモヤモヤは消えると思います。(中島隆、文中敬称略)
2011/11/14のBlog
(写真は大阪中之島のビジネス街・大阪市北区中之島2丁目)----->
2011年11月14日
『社会のために役立ちたい』(その1)
<新しい生きがいを求めて>
 「兵庫県川西断酒会 岩井 弘」。これが、いつも持ち歩く私の名刺である。58歳で会社を辞めた。その後、ハローワークで新しい職を探したが、経験を活かせる仕事は見つからなかった。いつでも新しい仕事は見つかる、と高を括っていた。アルコール依存症は、飲酒のコントロールが利かなくなる病気である。新しい職に就かないまま、過度の飲酒でアルコール依存症になり、断酒会に入会した。あれから3年半が経つ。

 しかし、私の名刺が、いまもってこの一枚だけ。地域とつながって、何かの役に立ちたいと思いながらも、なかなか踏ん切りがつかない。地域のために何ができるのか。私にはどんな技能や能力があるのか。とにかく、人に感謝されるようなことをしたい。その証としての名刺をもう一枚、と願う。

 ところで、プロボノと呼ばれる社会貢献がある。長年仕事で身につけた専門的な知識や技能を社会のために役立てる、新しい形のボランティア活動。プロボノに参加する人たちの職業も、金融や広告、研究職、さらにマーケティング、システム開発、広報などなど。これまでボランティアとは無縁と思われてきた職業に従事する人たちに、新たな社会貢献の動きが広まっている。

 プロボノとは、「Pro Bono Publico」を略した英単語で、ラテン語を語源とする形容詞。直訳すると、「公共のために」であるが、実際の意味は、「公益のために無償で仕事を行う」ことを指す。各分野の人たちが、仕事で培った知識や技能を生かして社会貢献するボランティア活動。または、それに参加する人たちのこと。

 日本のNPOを運営する人たちは、志は高く、思いも深い。しかし、資金や人材など、準備不足の状態でNPOを立ち上げる例が多い。このような日本のNPOの特質を考えれば、受益者であるNPOが、プロボノから受けるメリットは大きい。プロジェクトを通じてプロの仕事に触れることで、そのノウハウをNPOの内部に取り込めるからだ。

 一方、専門的な知識や技能を提供する人たちにとっても利点は多い。先ず、自分たちの職能を生かせるうえ、空いた時間を有効に使えるために参加しやすい。また、NPOのプロジェクトを通じて新しい人脈ができ、NPOの活動内容を勉強できることも意義深い。さらに将来、NPOでの成果が本業にフィードバックされる可能性もある。

 ところで、プロボノが新しい社会貢献として広がっていくのは素晴らしい。しかし、裏返して言えば、日々の職場での問題が背景にあるからだろう。勝ち組や負け組、さらに生き残りや勝ち残り。まるでサバイバルレースのように、何かに追われるようにして働いている。仕事がより専門化、複雑化する中で、職場の仲間でさえ競争相手に感じることもある。

 自分の仕事って社会に役立っているのだろうか。働くことの意味に疑問を抱きつつ、多くの人たちは、仕事に対するより確かな手応えを求めている。そんな時、プロボノという仕組みに巡り合い、仕事で身につけた知識と技能を役立てたいとNPOに奉仕する。

 プロボノとしてNPOを手伝って、「ありがとう」、という言葉を聞いた時、職場では味わえなかった喜びや達成感に浸ることができる。このように、ヒトとしての生きがいや働きがいを見つけ出そうと、新しい形の社会貢献が広まった。

 そこで、「誰かの役に立ちながら、自分も成長できるのでは」と考えて、仕事で身につけた技能や知識を生かしたボランティア活動で新たな生きがいを見つけ、今の仕事にもプラスになったと喜ぶ人たちを、次に紹介させていただきたい。
(写真は御堂筋沿いのビル・大阪市北区梅田3丁目)----->
『名刺をもう一枚①』
<やりがい 社外にも>
(2011年2月8日付け朝日新聞より引用)

 「プロボノ」という言葉を最近、耳にすることがある。仕事で培った専門的な知識や技術を社会のために役立てる、ボランティア活動を意味する。米国で、弁護士が法律知識を生かした活動を始めたのが、草分けとされる。日本でも都市部を中心に広がり始めている。

 外資系の不動産投資会社で働く東京都の土屋章子さん(37)は2009年12月、働く人と市民活動を取り持つNPO法人、「サービスグラント」(東京)の説明会でプロボノを知った。「誰かの役に立ちながら、自分も成長できるのでは」と考え、「お手伝いさせて下さい」と申し出た。

 まもなく、サービスグラントからメールが届いた。不妊体験者を支えるNPO法人、「Fine」(東京)という団体がある。そのホームページ(HP)には体験談が満載だが、構成が複雑で情報にたどり着くのが難しい。それを改善してほしい、という。Fine代表の松本亜樹子さん(46)は、「貴重な情報が多くあるのに、うまく伝えられていない。それを整理するために、プロの力をお借りしたかったんです」、と話す。

 10年8月の夜、Fineの事務所に、プロボノとして応援することを決めた20~30代の男女6人が集まった。リーダーの土屋さんのほか、編集者やウェブ制作者など職種は様々で、会社もバラバラだ。「体験者の声をもっと上手に伝えられるはず」。「行政や病院、学会の取り組みを積極的に発信したい」。そんな声に耳を傾け、土屋さんが進め方をまとめる。ホテルの経営計画を立て、達成に向け取り組む会社での経験が生きた。

 メンバーが顔を合わせるのは月に1~2回。普段はメールで連絡を取り合う。報酬はゼロ。関わる時間は一人ひとりが決める仕組みだ。3月の完成に向け、睡眠時間を削って作業するメンバーもいる。土屋さんは、「一生懸命な人と出会い、その役に立てること、信頼しあえることは、想像以上にうれしいことでした」、と振り返る。

●仕事の知識で社会貢献、プロボノで達成感
 東京都の会社員、小川宏さん(47)も、プロボノにやりがいを感じている一人だ。07年秋、小川さんは悶々としていた。大手電機メーカーから子会社に出向し、閉塞感に覆われていた。「30人の部下を抱える部長から不本意なポストへの異動で、プライドはずたずたでした」。

 「マイクロソフトでは出会えなかった天職」。米マイクロソフトの幹部だった米国人ジョン・ウッドさん(47)が、会社を辞めてNPO、「ルーム・トゥ・リード(RTR)」を設立。高い年俸を捨て、途上国の子どもたちに本を送る活動に取り組む姿が描かれていた。

 会社へ向かう地下鉄の中で、同い年の米国人が困難を乗り越えていく姿に、小川さんは涙がとまらなかった。「こうしちゃいられない」。小川さんは日記にそう書き、RTRが都内で開いた催しで、協力を申し出た。

 「経験を生かして協賛企業を増やしてほしい」と頼まれ、終業後に都心の企業を訪れて、企業が寄付することの意義を丁寧に説いた。飲食店の協力で、ビール1杯の値段から100円を寄付してもらい、途上国へ本を送るイベントも開催した。「法人営業の経験を生かすことができ、認められた、と思えた」、と小川さんは話す。気分転換にもつながり、仕事にもプラスという。

 小川さんは08年、スリランカに小学校を建ててもらおうと、RTRに250万円を寄付した。校舎の隅に、一人息子の名前を刻んでもらった。「息子が仕事で挫折をしたら訪れてほしい会社の外にも居場所を見つけた父親の姿を思い出してもらいたい」。

 RTRの日本支部では、専従職員は1人だけで、小川さんのような約100人のプロボノらが業務を担う。会議は月に数回程度。メールの交換が活動を支えている。小川さんは2種類の名刺を持ち歩く。片方は勤務先の会社名、もう片方はRTRの名前と役職が記されている。仕事で身につけた技能を、職場の外で誰かのために役立てたい・・・、そんな思いを実践する人々を、各地に訪ねた。
(小室浩幸)

<引用資料>
●日経BPネット(2010年2月19日付け)
「プロボノ-職能を生かす新ボランティア」
●NHK クローズアップ現代(2010年7月1日放送
「プロボノ-広がる新たな社会貢献のカタチ」
2011/11/02のBlog
(写真:大分トリニータの本拠地、大分銀行ドーム・大分市大字横尾)->
2011年11月3日
『もっと元気にな~あれ』(その9)
 「おれたち、このまま黙って死ねない」
 (大分県宇佐市安心院町)

 日本では1960年代以降、重化学工業を中心に多くの労働力を必要とする製造業が発達し、産業と人口が大都市圏に集中した。その結果、地方の町や村では高齢化と後継者不足で地元の産業、とりわけ林業は衰退した。労働力人口や地域活動の担い手が減少し、地方は人口の流出と過疎化の悪循環に陥った。

 同じ頃、1961年、大分県の一村一品運動のさきがけとなった旧・大山町(現・日田市大山町)は、NPC(New Plum and Chestnut)運動を始めた。米の増産や畜産を奨励していた国や県の政策に背を向けて、梅や栗などの果樹栽培による所得向上を目指していた。

 稲作に適さない山間地域を逆手にとって、「梅、栗植えてハワイに行こう」、というキャッチフレーズのもと、収益率が高く、農作業が比較的楽な農作物や果物を生産するようになった。また、梅干しやジュースなどに加工するなど、付加価値を高めて出荷した。

 ところで、大分県の一村一品運動は、1979年11月、大分県の平松守彦前知事が提唱し、住民が誇れる特産品や観光資源を市町村ごとに掘り起こし、地域の活性化を目指す活動である。

 その理念とは・・・・・、(1)「ローカルにしてグローバル」。地域の資源や特性を活かし、特色あるものを国内外で評価されるレベルに育てる。(2)一村一品に何を選び、どう育てるかは地域住民が決め、創意工夫を重ねて磨きをかけていく。(3)そして、一村一品運動の最終目標は、人づくり。一村一品運動には、先見性のある地域リーダーが欠かせない。何事にもチャレンジする創造力に富んだ人材を育成する。

 このように、大分県は自主的な取り組みを尊重し、努力する地域には積極的に支援した。しかし、補助金は出さなかった。県としては特産品づくりの基盤整備、(例えば、物流コストを下げる道路建設)、技術支援や販売促進などの側面支援に徹し、地域が自主的に特産品を育てることができるよう、「人づくり」や「地域づくり」を受け持つことにした。

 大分県の一村一品運動で、まちおこしを実現させた町がある。大分県の北部にある旧安心院町(あじむまち)。当時の旅館業法や大分県の規則では、農家は都会からやってくる観光客を宿泊させることはできなかった。客室の広さは33平方メートル以上、宿泊客専用の台所も必要と規制されていた。そこで町のリーダーは、規制緩和を求めて、何度も平松知事に手紙を書き、規制緩和を訴えた。また、「住民が規制緩和求めている」、と記事に書いてくれとマスコミに頼んだ。

 そんなリーダーの思いが知事を動かし、大分県の規制は緩和された。やがて国も法律の規制を緩和した。リーダーの思いが県と国を動かした、旧安心院町の一村一品運動を次に紹介させていただきたい。
(写真:日本で最初に農村民泊を始めた安心院町の民泊農家)->

『農家の情熱 規制に風穴』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑪」
(2009年8月1日付け朝日新聞より引用)

 都会からの観光客が農村に滞在し、住民との交流や自然を楽しむ。いまや日本各地でみられる光景である。かつて、農家は宿泊客を迎えられなかった。狭すぎてダメ、といった法律などの壁があったのだ。13年前、大分県北部にある旧安心院町(あじむまち)のブドウ農家、宮田静一(59)が立ち上がった。「土からモノをつくってるだけじゃ、食えない。おれたちはこのまま黙って死ねない」。この思いが、壁に風穴をあけた。

 宮田は、養鶏農家の後継ぎだった。畜産経営を学んでいた大学3年生のとき、父から宣告される。「養鶏はもうからん。どこかに勤めろ」。頭が真っ白になった。安心院でブドウ農家の入植者を募集している話を聞き、2千万円の借金をして3ヘクタールの農地とブドウの木などを購入。22歳で入植した。

 授粉に失敗し、雨の中すわり込む。雪でビニールハウスが倒壊したことも。どうすればいいんだ。ほかの入植者も苦しみ、相次いで安心院を離れた。ブドウ農家の灯を消したくない。そう思っていた宮田は、92年、町で開かれた過疎フォーラムで、「グリーンツーリズム」という言葉を知った。都市住民を農村や漁村に呼び込めば、収入は増える、と農林水産省が提唱し始めた言葉だった。

 これは使えるかもしれない。農家7軒で民泊を始めた宮田たちは、先進地のドイツを視察した。人口6500人の市で、グリーンツーリズムによる稼ぎは年32億円と聞く。農家に宿泊する客は、農家が運営するレストランや直売所にもカネを落としていた。

 めざすゴールはこれだ。やがて民泊農家は14軒に。宿泊者は年2千人を超えた。でも、「違法」だった。旅館業法や大分県の規制で、客室の広さは33平方メートル以上いるし、宿泊客専用の台所が必要とされていたのだ。ふつうの農家は狭いし、台所は自分たちで使っている。こんな条件、満たせるわけがない。ドイツの豊かな農村を思い出し、宮田は決意する。「規制で縛るのがおかしい。安心院から風穴を開けよう」。

 とはいえ、国や県から何か言ってくるかも、とヒヤヒヤしていた。だから宮本は、あせった。地元の記者に、「規制緩和を求めている、と記事に書いて」とたのむ。取材にやってくる著名人にも訴える。内館牧子(60)は、「安心院の農村民泊はすばらしい」と雑誌で援護射撃をしてくれた。

 「一村一品運動」で知られた知事の平松守彦(85)に、何度も手紙を書く。「規制緩和はあなたしかできません。国に働きかけて下さい」。02年3月下旬、町長がきた。「やったぞ、宮田さん!」。県が独自の規制緩和を町に通知してきたのだ。台所は、宿泊客が農家といっしょに調理、飲食する体験型ならOK。客室も廊下を含めて33平方メートルあればいい。

 宮田はうれし泣きした。翌03年、国は大分県にならう形で法律の規制を緩和した。いま、宮田たちの農家は、年間8千人の宿泊客を受け入れている。全国の民泊農家は2千軒を超えた。宮田はいう。「規制緩和をしてくれた平松さんには、いくら感謝してもしきれない」。

 私は平松に、宮田の思いを伝えた。こんな答えが返ってきた。「住民が始めた運動を育てたいと思っていました。でも、あれは、僕の指示じゃない。部下が判断したのです。報告を受けて、結構じゃないか、と言ったことは覚えていますが」。通産官僚から郷里の知事を24年間つとめた平松はいま、一村一品運動を海外に広める活動をしている。

 毎年、アジア、アフリカを中心に千人を超える人たちが、大分各地を訪れる。「その中で安心院に泊まった人は、うちの国でも民泊を、といって帰っていきます。立派な一村一品運動です。地方が世界を動かすのです」。(神田誠司)
(写真:由布岳にかかる雲海から見た湯布院町の全景)------>
 
 ところで、大分県の、「一村一品運動」がどのように展開されてきたか、平松守彦氏が大分県知事を退任した後、2003年6月18日より毎日新聞に27回にわたって連載された、「地域の自立戦略」の一部を次に紹介させていただきたい。

◆地域の自立戦略⑦
「一村一品」、<主役は地域住民>
(2003年7月4日付け毎日新聞より引用)

 一村一品運動は失敗例もずいぶんある。失敗したら、また新しいものに挑戦すればよい。県の職員には、「やる気のある地域を後押しせよ」、と言ってきた。失敗しても這い上がれば、また新しい道が開ける。要は人材だ。

 起業家精神を持った人材を育てるため、83年に、「豊の国づくり塾」を作った。先生がいるわけでも、教科書があるわけでもない。農家の人や学校の先生、農協の職員が塾生徒で、地域おこしの経験のある人が先生となって塾を始めた。

 そこで、「県は自ら助くるものを助く」を掲げ、努力するものを応援した。でも補助金は出さなかった。そのかわり、特産品づくりの基盤整備、例えば物流コストを下げるために道路を造ったり、技術指導は県が受け持った。こんな一村一品運動で過疎の地域がなくなるわけではない。過疎とは、人、モノ、カネや情報の東京への一極集中と表裏一体で、一村一品で過疎が救えるとは考えなかった。

 リーダーが中心となり、住民みんなで行動したからうまくいっている。いい人材をいかに育てるかが大事だ。舞台の主役は地域住民、行政は舞台づくり。役者が困ったときに照明を上手く使ったり、舞台の装置を美しくして主役を守り立てるなど、黒衣(くろご)(黒子)に徹する

◆地域の自立戦略⑧
「ローカル外交」、<一村一品、海外へ>
(2003年7月5日付け毎日新聞より引用)

 ローカル外交。それは中国・上海から始まった。1983年、当時の汪道涵・上海市長から突然、「一村一品運動とコンピューターの話をして欲しい」、と頼まれた。平松は、通産省(現・経済産業省)電子政策課長をしていた1973年、コンピューターソフトの本を書いたが、汪さんはその本の中国語版を持っていた。

 上海ではどの工場も縦割り工程のため品質がバラバラ。「品質向上のため一村一品をやりたい」、という。農産物も買い上げ制で、品質に関係なく値段が同じなので、結局品質が悪くなる。一村一品運動は品質管理運動。農産物に限らず、工場の生産技術の向上にもつながると評価された。

 セマウル運動(新しい農村づくり)を展開していた韓国でも注目された。ソウル一極集中で、都市部と地方との所得格差は大きかった。1990年12月、当時の盧泰愚大統領に招かれて、公務員研修所で幹部たちの前で講演した。その模様はテレビで放送され、一村一品運動の本も出版された。いまでは、「一村一品」と、「セマウル」のリーダー同士の交流が盛んになった。

 一村一品運動を採り入れるにしても、中国と韓国では目的が違う。中国は品質の改善にる所得の向上で、韓国はリーダーの育成など人づくりが目的。いずれも大分という地域が、相手の地域の実情に合った付き合いをする。これが「ローカル外交」、と思ってもらいたい。
(高原野菜栽培、酪農が盛んな飯田高原・大分県玖珠郡九重町)

◆地域の自立戦略(22)
「地方分権」、<中央の支配に驚いた>
(2003年8月1日付け毎日新聞より引用)

 今でこそ三位一体論など地方への権限や財源移譲、地方分権が声高に叫ばれるようになったが、この回顧録の題名から分かるように、知事として地方自治に携わるようになって、中央によるあまりの地方支配に驚いた。「このままでは地方は埋没してしまう」、と危機感を持った。

 解決策はないかと15年ほど前から考え始め、96年に、「分権・分財・分人論」をジュリスト(有斐閣社刊)に発表した。国と地方の関係を再構築するには分権しかないと考えて、「自治体から見た分権」とは何かを問い、論文という形で著した。

 主張したのは、地方分権には三本の柱があるということ。①分権とは、国から地方への権限移譲。②分財は、財源移譲。③分人は、東京一極集中に対抗するには、地方に若くて優秀な人材が定住できるようにする。この三本柱が地方の自立に不可欠で、将来の道州制、連合国家への重要な道程と確信している。

 「なぜ大分の平松が分権を言い出したのか」、疑問に思う人は多いだろう。だって私は、それまで通産省(現経済産業省)という国家機構の中枢にいた。官僚は権限の縮小、ポストの削減を嫌う。だから、「平松さん、そんなこと言い出したら困る」なんて通産省の連中が言っていた。

◆地域の自立戦略(23)
「地方分権」、<権限と財源の確立を>
(2003年8月2日付け毎日新聞より引用)

 大分に帰り、79年に知事になってみると、国と地方の関係は江戸時代の幕藩体制そのままだった。私の分権論は、そんな体験からスタートしている。知事は東京に行くことが多い。「地方の時代」なんて言われていたが、とんでもない。権限や情報、人までも東京に集中していた。

 道路や港の建設、そして企業誘致、さらに年末の予算獲得の陳情など、仕事をすればするほど東京に行かねばならなかった。2期目になると、年間2ヵ月半も東京にいる勘定になる。私だけじゃない。地方の知事はみな同じ。まるで、江戸時代の参勤交代だ。

 それにもう一つ、高速道路の整備を例にとってみる。財政再建の建前から、効率化、投資効果が重要視され、後進地域への配分は遅れていく。大都市の高速道路は整備されるが、地方は国民合意が得られにくい。すると、人口や産業は、ますます大都市に集中し、日本全体の政治、経済が活性化しない。地方に住んでみての私の実感だ。

 なぜ、こうなるのか。それは、地方に権限と財源がないからだ。地方が財源を持ち、地方のことは地方が決めるという制度を作らないと、いつまでも参勤交代は続き、地方の浮揚はないと思った。だから、「国は通貨、防衛、外交だけをやれ、あとは地方に任せろ」、と分権論、権限移譲を本に書いたり、講演や対談で主張してきた。

 日本は、明治維新で中央政府が先に誕生し、廃藩置県によって県ができた。だから、中央政府に権限が集中し、地方は中央政府の出先という姿をいまだに引きずっている。日本も連邦制が導入され、地方が自主財源を使って、身の回りの公共事業や教育、福祉、生活環境の整備などを行えば、当然東京への一極集中は解消される。
(立命館アジア太平洋大学のイベントホール・別府市十文字原)----->

◆地域の自立戦略(24)
「地方分権」、<税体系の見直しから>
(2003年8月6日付け毎日新聞より引用)

 先に、地方分権には三本の柱があると言った。簡単に説明したい。先ず分権(権限移譲)だが、国と地方の役割分担を見直し、国の役割は通貨、防衛、外交に限定し、住民に直結する分野は地方に任せ、権限と財源の再配分を実施する、これが原則だ。

 これまで地方の行財政能力の弱さが指摘されてきたが、大分県は95年から県の権限を市町村に移譲してきた。安心院町のグリーンツーリズムなど規制緩和の効果は表れた。

 さらに同年、当時導入された広域連合制度を活用し、全国で初の大野郡広域連合(8町村)もスタートさせた。私は将来、県制度も廃止して全国を7つのブロックに分けるべきだと考えていた。九州は8県で「九州府」いわば、廃藩置県ならぬ、「廃県置州」だ。何も全国一斉に道州制に移行する必要はない。一国二制度で、九州から始めればよい

 次いで、分財(財源移譲)。地方分権を実質的に機能させるには、現行税制を地方が自立できるような制度に変える必要がある。国が地方に回す「三割自治」では、地方の殺生与奪は国の思うがままである。このため、税体系を根本的に変えなければならない。

 注目すべきはドイツで、連邦、州、市町村が平等かつ安定的な財源確保を可能とする租税体系を作り上げていることだ。ドイツ税制の特徴として、共同税がある。売上税、所得税、法人税(租税総額の70%)が中心だが、これについては、日本の地方交付税とは逆に、州が徴収し、一定割合を連邦に交付していることだ。

◆地域の自立戦略(25)
「地方分権」、<目的は住民生活の向上>
(2003年8月7日付け毎日新聞より引用)

 三つ目は、「分人」(人材定住)である。地方の自立には、経済的な基盤が不可欠である。私は、先ず地方都市を育て、活気のある地域経済圏を構築して、若くて優秀な人材を育成することが大事である、と主張してきた。人と地域は一体であると主張した。

 人を育て、地域の持つ潜在能力を引き出すことだ。そのため、住民のやる気を重視した一村一品運動を提唱して、「豊の国づくり塾」、「おおいた平成農業塾」など、多くの塾を作り、地域おこしのリーダーとなる人材の育成に努めた。

 地方の自立は、東京一極集中に対抗できる地域を育てることだ。地方の体力強化(地方力)と、優秀な人材確保なくして、地方自治体の執行能力は生まれない。地方分権は手段であって、目的ではない。本当の目的は、地域住民の生活水準の向上にある。住民の要望にあった行政を行うには、中央集権型システムより、地方分権型システムの方が望ましいからこそ、私は地方分権を進めてきた。

 地方分権には中央官僚の抵抗は強い。族議員の既得権益確保のための反対も多い。地方分権を進めるには、国民的合意が前提だが、そのためにも、「分権、分財、分人」と、それにみあう受け皿としての道州制に移行することが必要だ。私の知事任期、24年間を振り返ると、「地域の自立」を目指した道だった。地域の自立発展に貢献できたことは男子の本懐だが、自立の道はなお遠いとの感が深い(了)

<引用文献>
 ●アジ研選書3「一村一品運動と開発途上国」(松井和久・山神進編、2006年10月)
 ●毎日新聞(2003年6月18日付より8月9日付まで)、全27回の連載記事「地域の自立戦略」
 ●NPO法人・大分一村一品国際交流推進協会のホームページ
 ・「一村一品運動の背景・進め方・理念」、「一村一品運動の実践」
 ・「一村一品運動の成果」、「一村一品運動を通じたローカル外交」
 ●朝日新聞(2006年5月8日付け)・「一村一品運動」(キーワードの解説)


2011/10/25のBlog
(写真は奥の茶畑と稲かけの風景・京都府相楽郡和塚町-->
2011年10月25日
『もっと元気にな~あれ』(その8)
 「役場が変われば 住民も続く」

 地理的条件に恵まれない離島の町や山あいの村。役場が本気になって地域再生に取り組めば、役場と住民がつながってまちは動き出す。「住民あっての役場」、と職員の意識が変われば、「あれをしてくれ、これもやってくれ」、と役場に頼むだけだった住民も、「俺たちでできることは、俺たちでやる」、と思うようになった。
 
 2003年6月、政府が決めた地方財政の三位一体改革は、国の関与を減らし、地方が財政的に自立して、自らのことは自らで決めるという地方分権を税財政面から進展させるものであった。

 しかし、財政基盤の弱い地方にとって、国庫補助負担金の削減、国税を地方税に移す税源移譲、地方の格差是正をなくす地方交付税の抑制など、国と地方の税財政関係を抜本的に改革する厳しい内容であった。

 その結果、財政の裁量権が国から地方に移され、財政の責任が地方にのしかかることになった。それまで国の補助金に頼ってきた公共事業は、地方の自主財源でまかなうことになり、補助金の削減で必要な事業予算も組めなくなった町や村が多くなる。しかし、危機意識と共通の目的、そして連帯感で役場と住民がつながれば、まちは元気になっていく。

 先ず、役場が身を削った。町長自ら給料をカット、その後に管理職、一般職員が続いた。次に、「住民あっての役場」と、職員に意識の変化が起きた。それを見て住民が、村の補助金削減を申し出る。そして、民間企業のコスト意識と経営感覚を役場に取り入れた。職員を民間会社に送り込み、厳しい競争社会の中で生き抜く企業の営業活動を体験させた。

 こうして財政危機をしのいだ役場は反転攻勢、起死回生の秘策を実行する。地元の特産品に付加価値をつけて販路を拡大する。若者を地域に呼び込み、住民として長く暮らしていけるよう手厚い支援策を実施した。このように、役場の思いと住民の心がつながって元気になった町や村がある。そこで、島根県の沖合、隠岐諸島にある島の町と長野県の山あいの村を次に紹介させていただきたい。
(写真は中ノ島最南端からの眺め・島根県隠岐郡海士町)
●『役場が変身 戻った産声』
「ニッポン人・脈・記 ふるさと元気通信⑦」
(2009年7月28日付け朝日新聞より引用)

 5年前のその朝、島根県海士町(あまちょう)の町長、山内道雄(71)は耳を疑った。町長室にきた総務課長の美濃芳樹(53)が、こういったものだから。「私たち管理職の給料を2割カットしてください」。海士町は、日本海にある隠岐諸島のひとつ、中ノ島にある。

 本土の学校で勉強する子どもたちへの仕送りでたいへんな管理職もいるだろうに。「待て、オレはそんなことは求めていない」。実は前日、山内は管理職を集め、自身の給料3割カットを表明していた。美濃はきかない。「みんなで決めたことです」。

 「三位一体」を名目にした地方交付税の大幅カットに伴って収入が激減、町は予算を組めないピンチに立っていたのである。山内はいう。「私の涙は止まりませんでした。あの朝、町の再生がはじまりました」。

 山内はもともと、島の郵便局員だった。電報電話局に配転され、島を離れた。85年のNTTへの分割民営化を経験し、民間企業のコスト意識と経営感覚をたたき込まれる。母親の介護のため、52歳で支店長の座をすて島に帰る。町議をへて02年、町長になった。

 さっそく、幹部会の名称を「経営会議」に変えた。その会議で何度もしかった。「してやる」じゃない、「させていただく」だ、町民あっての役場だ。職員の意識改革を始めて2年たったとき、交付税カットにあったのだ。管理職に続き、一般職員も賃下げを求めてきた。05年度の、全国でいちばん給料が安い自治体になる。

 身を削った役場を見て、町民が動いた。ゲートボール協会が8万円の補助金を返上してくる。老人会は、バス代半額をやめて、と申し入れてきた。こうして、財政危機にひと息ついた町は、攻めに打ってでた。特産の岩ガキや白イカを東京、上海に出荷したり、「さざえカレー」などを開発したり。

 おもしろい島があるらしい、と田舎暮らしを志す若者たちの評判がたつ。本土から船で2~3時間かかる人口2千人あまりの町に、この5年間で164人が移り住んだ。去年、20人の赤ちゃんが生まれた。山内はいう。「職員との合言葉は、オレたちで日本を変えちゃろう、です」。
(写真は秋の高原の風景・長野県下伊那郡下條村)---->
 山内は昨年暮れ、地域づくりの達人を紹介するテレビ番組に出た。出演者の中に、「出生率をあげた村長」と紹介された首長がいた。長野県下條村の伊藤喜平(74)である。村でよろず屋と運送業をいとなむ家の長男に生まれる。高校3年のとき、父が病に倒れて進学を断念。がむしゃらに働き、家業をどんどん大きくした。

 そんな伊藤には、気がかりなことがあった。それは、村の将来。生糸産業が衰退し、人口がごそっと減っていたのだ。なんとかしたいと村議になるが、議員では村は変えられないと感じ、92年に村長に。

 ネームプレートをつけるかどうかだけで、何時間も会議をする職員たちを見て、伊藤は、「これはダメだ」と思った。民間のスピード感を身につけさせようと、職員全員を6日間ずつ、ホームセンターの接客研修に出した。研修から帰った職員の目の色が、変わっていった。

 ある集落の顔役が、「溝を修繕してくれ」と陳情にきた。伊藤は、コンクリートなどの現物を手渡して、言った。「その程度のことなら、みなさんでできる。役場も変わる。住民も汗と知恵を出してくれ」。できることは自分たちで、と住民は考えるようになる。

 伊藤は、つぎつぎに手厚い子育て支援策を繰り出した。医療費は中学生まで無料、若夫婦を呼び込む格安マンションを10棟建てた。すべて村の自前の財源でまかなっている。

 その結果、村の03~07年の平均出生率は、全国平均を大幅に上回る2.04に。95年に4千人だった人口は、4200人になっている。「危機意識と共通の目的、そして連帯感で住民と職員がつながれば、地域は変わります」。(神田誠司)
2011/10/20のBlog
(写真:雪に覆われたかやぶきの民家・京都府南丹市美山町)--->
2011年9月17日
『もっと元気にな~あれ』(その7)
 「田舎暮らしもいいけれど」
 (京都府南丹市美山町) 
 
 定年までひたすら働いた。これからは、通勤電車の混雑も経験しなくて済む。会社という組織に縛られることもない。職場での複雑な人間関係からも解放される。ここらあたりで身体を休め、これからどう生きるか、じっくり考えたい。自由に使える時間はたっぷりある。これからは夫婦二人だけの生活。のんびりと、何からもせきたてられない田舎暮らしでも考えてみるか・・・。

 都会の喧騒から離れ、田舎へ移り住みたいと願う人は多い。田舎暮らしを望む理由は人それぞれ。共通するのは、豊かな自然があって、時間がゆっくりと流れる田舎での暮らし。ささやかな木造の家に住み、前の畑で自給自足の野菜を作る。近くに小川が流れ、夜は満点の星。多少の不便は覚悟の上。ときには野山を歩き、好きな趣味をやり直してみたい。

 しかし、田舎での生活は、自由気ままは許されな。田舎には、住民全員が守るべき約束ごとがある。田舎へ移り住むと決心する前に、その約束ごとは必ず守るとの覚悟が必要だ。村の約束ごとは守らない、地域の行事にも関わらず、自分流の暮らしをしていると、やがて周りから浮いた存在となり、田舎暮らしが続けられなくなる。約束ごとを守り、地域とつながる人だけが、住民として認められる。

 そこで、「都市の食を支え、自然を守る地方があるから、都市がある」、そんな田舎を誇りに思う人たちを紹介させていただきたい。まちおこしのリーダーが、都会からの移住希望者に求める「覚悟」とは何か、田舎暮らしを考えている人たちの参考になればと願う。
(写真:レンゲ畑が広がる美山町の風景)----->
「ニッポン人・脈・記」
ふるさと元気通信⑬ 『田舎の誇り なめるなよ』
(2009年8月4日付け朝日新聞より引用)

 都会の人が「移り住みたい」といってきたら、過疎のまちはふつう、諸手をあげて歓迎するだろう。でも、京都府の美山町は違った。二十数年前、役場でまちおこしを担当していた小馬勝美(70)は、こんな条件を文書にまとめた。

 嫁さんに覚悟はあるか/集落に協力はいるか/村の共同作業をいとわない/プライバシーはないと思え/3年は我慢/農業だけでは食べていけない/現金は必要だ。この、「田舎暮らしの7カ条を受け入れる覚悟はありますか?突きつけられた都会人の大半は、おそれをなして帰っていく。覚悟がない人は、こっちから願い下げ。「田舎をなめちゃダメ、ということです」。
 
 貧しい農家の長男に生まれた子馬は、19歳で役場の職員になった。30代になり、過疎対策を練ろうと、町を出た人たちにアンケートした。こんな答えが返ってくる。「美山出身だと言いたくない」、「田舎ものと思われたくない」。小馬は、東京であった青年団の大会で、田舎者とバカにされ、言い返せなかった悔しさを思い出した。「誇りをもてる日本一の田舎づくりをしよう。昔話に出てくるようなかやぶき民家でまちおこしだ、とひらめく。

 さっそく集落で呼びかけた。貴重な財産です、みんなで残しましょう。すごい反発だった。「貧乏の象徴を残せ、というんか」。有志と一軒一軒、説得に歩く。18年がかりで、全50戸の同意をとりつけた。いまや、「かやぶきの里」は、多くの観光客を呼び込んでいる。小馬は、都会からのアイターンの受け入れにも力を入れた。

 ところが、集落から、共同作業をまったくしない、と不満の声があふれた。移住者に事情を聞くと、「なぜ、しなきゃいけないの?」。この連中、田舎をなめとるな。小馬は、知り合いの森茂明(68)に頼んだ。「いっしょに田舎暮らしの掟をつくってもらえませんか」。

 京都市内で釣具店を営んでいた森は、渓流釣りで訪ねた美山の風景にほれ込み、76年、かやぶき民家に越してきた。農業をしても、山仕事をしても、生活はカツカツ。さらに、集落の共同作業の忙しさといったら。消防団や青年団、みぞ掃除に草刈り。そんな日々の思いを小馬に語り、あの7カ条に結実させたのである。「簡単に食えるなら、過疎はない。でも、都会とは違う楽しさがあります」。

 全国の田舎を、「平成の大合併」の大波が洗う。行政の効率化、スリム化の名のもとに。美山町にも、周辺3町との合併話がもちあがった。助役を最後に、役場をやめていた小馬は、合併に反対する住民運動の先頭に立つ。

 しかし、小馬の声は届かず、06年、南丹市が誕生する。合併前、美山町は移住希望者の相談にのる第三セクターをつくった。そこでは、もうあの7カ条は使われていないが、「覚悟」は求め続けている。「食糧を供給し、国土を守る地方があるから、都市も成立する。我慢して、都会にこびず、田舎を磨くしかないんだ」。(神田誠司)